暦の上では立秋も過ぎ、立秋という響きから夕刻になって吹き出す風も心なしか涼しさを感じられるようになって参りました。
でも、日曜日午後3時過ぎのアスファルトとコンクリートで囲まれた繁華街の温度は36度でしたので、出歩かない方が賢明ともいえる猛暑日でした。
琵琶湖を源流とする一級河川の淀川が近くを流れているので、さどや涼しい川風が吹いてくるものとばかり思っていましたが、どうして、夜になっても温度が下がらないのは、この守口界隈もいわゆるヒートアイランド状態となっていることからでしょうか。
ともあれ、まもなく「お盆さん」を迎えます。
家族が大勢いて、賑やかだった子供の頃、供物を供え、迎え火を炊いてご先祖をお迎えし、子供会が主催する三沢川での「ナギンデー(新盆を迎えた家から拠出して頂いた杉の木や檜、孟宗竹などの先端に、麦わらで蜂巣状の受け皿を作り、倒れないように四方を針金で張って支えた塔のようなものを立てます。別に、小石を芯にして布きれを巻き、針金でギリギリと縛りながらソフトボール大の布玉を作り、1メートルほど針金をのばしてその先端を丸くして指が入りやすく作ったものを石油に浸し、火を付けてグルグル回しながら蜂巣状のところめがけて投げるもので、子供の頃は夏の害虫退治のために行うものと教えられていましたが、どうも古くから伝わる川にまつわる様々な思いを鎮めるための行事のようです。そういえば、三沢川が氾濫し、橋が流され道路が決壊し、人が流されたことを覚えています。)」は大人の盆踊りとは別の子供の重要な盆行事の一つでした。
外灯の少ない田舎でのことです。漆黒の中にゆったりと回りながら夜空に舞い上がり、遠目にはかなりの時間をかけて彼方に落ちていく火の玉は、暗闇をキャンパスにした幻想的な火の舞のように見えたものです。
大人も子供もご先祖様も、みんな一緒になって盆踊りを楽しみ、キュウリやナスでこしらえた精霊馬を三沢川に流し、ご先祖様にお帰り願う送り盆までの一連の盆行事も、今や子供の頃の思い出の中にしかたどることができません。
正月行事はご先祖様を迎える初春の行事としたならば、初秋の盆行事はやはり心なしかうら寂しい何かが重なり合います。
齢を重ねて田舎を意識すればするほど、ご先祖様を迎え入れる場所をなくしたことはやるせないどうすることもできない寂しいものが突き上げて来てしまいます。
田舎とは、そういう存在であったのですね。
…盆の里 家族集いし 三沢川 太き流れも河鹿も失せて…