ほどよく空気が乾燥していて、渡りくる風のなんとも清々しい季節となりました。
このような時節を過ごすとき「気分爽快」と言えるかもしれません。
さて、八百屋さんの店頭では赤梨の幸水や長十郎などから豊水にバトンタッチされつつあり、青梨の二十世紀もそろそろ終盤に入ってきているのではないかと思います。
びっくりするくらい大きな新高や愛宕がナシの最後を締めくくることになりますが、この大きなナシは他のナシに比べると格段の日持ちがすることでも知られております。
ナシは冷やしすぎると甘みが抑えられて美味しくなくなるようです。
ほどほどのところで食べるのがよいようですネ
ナシ…このナシには小さいころの思い出が一杯詰まっております。
その昔…小生の子供のころには、ちょうど今ころの季節になると各家々では庭に面した和室の障子を一杯に開けて、お月様に見えるような位置にまでお供え物をせり出して「お月見」を致します。
そこには垂涎のご馳走である団子や柿、リンゴにブドウとナシなどが山盛りに飾られておりました。
「お月見」は、神秘な月をあがめて月にご馳走を供える田舎における年中行事の一つでしたが、実は子供にとっては全く別ものであり、わくわくする狩りを期待させるような楽しみの行事でもあったのです。
準備をするのもまた楽しみの一つで、明るいうちに回る家の順番を決め、それから、およそ1,5メートルほどの細長い竹竿を用意し、その先端に5寸釘を縛り付け、いわゆる即席のモリを作ります。
サァー、そこからが腕の見せ所となります。
獲物はもちろんお供え物のご馳走です。
でも、そこにはちゃんとルールがあって、一つの家から2個のご馳走を頂いてはいけないことが暗黙のうちに決められておりました。
ですから、お供え物の中で何が一番立派であるかを見極めることが最も重要なことでした。
小生は、ある家の庭から侵入?し、今まで食べたこともない一番立派な二十世紀を突きました。
してやったり!
と、退散しかけたところにどういうことか家人に気付かれてしまいました。
コラー!
の大声を背に受けて慌てて退散したところで、なぜ気付かれてしまったのか考えたところ、一番上に載せてあった一番大きな二十世紀を突いてしまったためにお供え物の形が代わってしまい、たちどころにばれてしまった、という訳でした。
子供の浅知恵が事を簡単に露呈させてしまったわけですが、それでも、この年齢に至り現実と向き合って沈思黙考するとき、子供のころの遊びにはちゃんとルールがあって、しかも考えながら準備と段取りがなされていたんだな、と我ながら感心することしきりです。
もちろん!苦労して得た、生まれて初めて食べる二十世紀は、それは別世界の食べ物であったことはいうまでもありません。
安全な場所を見つけ、果汁がほとばしるガブリ食いでやっつけしまったことを覚えております。
このようなことが大人になってから役に立ったか否かはっきりとはわかりませんが、少なくとも考えながら遊んだことは決して無駄にはなっていないことは確かだと思います。
また、あのころの大人も生意気な子供の遊びをわかっていて、大声を出すだけで追いかけてこなかったことを見ても、何事もわかっていたのだなと勝手解釈をして自らに言い聞かせてもおります。
綿密な準備と効率よい段取りはいつの世でも大いに期待されるものですが、それでもなお、ほころびが生じたときに、心に余裕を持たせたしかり方は人を育む原点ともなることを信じて疑いません。
今でもなお高価な二十世紀梨をおいそれとは食べられませんが、比較的求めやすい甘酸っぱい豊水を味わいながら往事のことを思い返しているところです。