小生の生まれ育った甲州の田舎言葉では、ツクシンボーと語尾を伸ばして呼んでいましたが、大阪での一般的な呼び方はそのままツクシでした。
筆が(この場合、毛筆のフデ)土を押しのけてスックと立っている様が文字そのままから想像できます。
ポッカポッカ陽気の昨日は近くの淀川河川敷公園の堤防では土筆を探している姿がちらほら見られました。
小生もつられて探してみましたが、残念ながら発見には至りませんでした。
土筆は筆の部位を摘んで、袴をきれいにして炒め物やおひたしにして食べることができるそうですが、「久那土村周辺における山菜の実勢状況について」などと試験問題が出されたら自信を持って?5が頂けるくらいの小生でしたが、ツクシが食べられるとはついぞ知りませんでした。
農薬などとは無縁のものですが、都会にもこんな身近に食べられる山菜があることを喜ばしく思うと共に、子供達には小さなうちから山菜を探す喜びと見つけた感動、そして自分で収穫したものを食べられる小さな喜びを教えていってもらいたいものと思います。
山菜は根を取らない限り、毎年同じ場所にちゃんと芽吹いてくれます。
こんな真っ正直なものは他にありません。
小学生高学年のときのことですが、立派な松茸(半信半疑で)を3本とって来て母親に自慢げに見せましたが、キノコが大嫌いな母親はそれを見るなり「毒だから食べてはダメ!」というなり河原にポイ!と捨ててしまいました。
子供心に「あんな匂いの良い立派なキノコは絶対松茸だ。毒キノコであるはずがない。」と、つい愚痴が一緒になって友達に吹聴してしまいました。
それからは愚痴ったことがどうも気になり、数日してその場所を見に行ったところ、なんとその場所は完璧に荒らされ、周囲至る所地肌が露出してしまっているではありませんか。
驚きなんてものではなく、大変なショックを受けました。
愚痴るのではなかった、と幾ら自分を叱っても元に戻るものではありません。
後の祭りでした。
何が悔しいかは、心ない行為が二度と松茸が自生しない、今後絶対再生しない山にしてしまったからです。
次のときのために、ソッとしておくのが大切なことなのに、です。
春がもうそこまで来ております。
山菜積みを楽しみながら、何が大切なことかを小さなうちから子供達には教えていってもらいたいと節に思うのです。
やがて…いつの日にか
真っ白な子供心を傷つけないためにも…